信じること「ローン・サバイバー」
アマプラで映画みて感想書いてる
Huluはこちらnageyari.hateblo.jp
アメリカの特殊部隊「ネイビー・シールズ」におけるアフガニスタン、タリバン指導者暗殺作戦。
史上最大の悲劇と呼ばれる「レッド・ウィング作戦」を元にした作品。
ある程度、ミリ知識があったり、ミリ映画をよくみている方なら非常にわかりやすいストーリーだと思う。
作戦の内容としてもわかりやすい。
攻撃チーム誘導をするために少数(4名1チーム)で現地を視察。
目標が滞在している村から少し離れたところから降下して、アフガニスタンの山岳地帯を歩き、近づく。
ここで、目標を視認して射殺することも可能である。というシーンになるが
理解がある人であれば、
1.無線連絡で本拠地にいる少佐の指示を受ける
2.射撃許可を受ける
3.発砲する
そういった流れは理解できて、
山岳地帯なので電波状況が悪く、無線連絡が難しくて発砲許可が降りなかった。というストーリーの流れも納得できるだろう。
なぜ、こういう面倒くさいことをするのか
「許可なんて取らずに、確実に撃てる状況ならやってしまえばよかったのに」
という考えもわかる。
記憶が曖昧だが、
目標視認した地点から、目標人物までの距離は60mから100m圏内だっただろうか
風もほぼ無風、上から下へ見下ろす形で視認していて、遮蔽物も少なくて
確かに、射殺するには絶好のチャンスではあった。
あのシーンで目標を射撃しても遂行できる可能性は高かったとも思われる。
しかしながら、
軍隊というのは、リスクを極限まで排除して任務を遂行しなければならない組織なのである。
「なんか、無線もつながらなかったけど、撃てそうだったし撃ってヤッたわ~」とかで、もしも失敗したら。失敗しなくても、狙撃手だけでなくチーム全員の責任を負わなくてはならない。
そういう組織なのだ。
人の命が掛かっている以上は結果だけでは評価されない。
80%良い結果が生まれる可能性があっても、残りの20%よくない結果につながるなら、その20%の責任の所在をはっきりさせなければならない。
そういう組織だ。
人の命を預かって指揮官は行動し対応して、極限まで部下を失わないようにリスクを減らして上官は作戦を考えている。
故に、
山羊飼いの3人に見つかって、一時拘束し、山羊飼いを開放すれば敵が追ってくる状況なのにも関わらず、殺害せずに拘束を解いて、
偵察部隊は、敵から負われる可能性があるにも関わらず、作戦を中止してヘリを呼んで撤退するために無線がつながる高地を目指したのは
無駄な殺生を好まなかったという理由だけではなく、
・今後のチームの関係性が悪化
・山羊飼いの3人の遺体が発見された後の、敵軍の報復
・上官の指示なしに行動した責任の所在をどうするか
など、色々と負のリスクがあったから指揮官は判断、対応し行動したのだと思う。
しかしながらも、
そういう判断をしたから、チームを危険に晒し、自らも命を落とす形になってしまった。
そのような残念な結果になったのは
・山羊飼い、およびタリバン軍の山岳地帯における戦闘、行動が慣れていることを把握していなかった
・重ねて、自チームの山岳地戦闘、行動の経験不足
・小さな村に、100人近くのタリバン兵が潜んでいること。所持武装を把握していなかった。
などがあると分析してみた。
これらを「不運」という二文字だけで片付けるのは、個人感情的に難しい。
まあ、それは俯瞰視点で安全地帯から鑑賞しているからにすぎないことは重々承知
そもそも、フィクションであることも重々々承知
20世紀のミリタリー映画ではアフガニスタンを舞台にした作品が多くある。
ローン・サバイバーという映画でも、ターリバーン指導者暗殺作戦というのが主内容なわけだが
ここに登場する「ターリバーン(タリバン)」というのは何か理解していて、それと米軍の関係性を解説できる人は日本人でも少ない。(もちろん私も)
その関係性など、何も知らない人がこの映画をみても、オチにつながる後半のシーンでは
「なんで銃撃戦してる人に助けられてんの?」という感情が生まれる。
猿でもわかるように軽く解説すると
イスラム教の中に「スンナ」「シーア」がある
本作の中で「タリバン」というのはこの中で「シーア」に含まれる組織である。
2つの分派は
お菓子というカテゴリの中に「きのこの山」「たけのこの里」ってのと同じだ。
インターネッツ住民なら分かるが、2つの派閥は争いが絶えない。
イスラム教徒全体の
20%が「シーア」つまり「きのこの山」
80%が「スンナ」つまり「たけのこの里」
その他としてアレヴィーとかイバードとか色々あるが数%にも満たないのでポッキー派とでもしておこう。
それぞれの宗派が何を信仰していて、考え方の違いについてはwikiでも読んでほしい。
ここで解説することは難しい。
きのこの山派は、山と着くように主に山岳地帯に住んでいて
本作では、そんなキノコ派の住むところをタケノコ派が占拠したという部分につながる。
さらに、
舞台のアフガニスタンは多民族国家であり多くの民族が住んでいて
その中でも大半をしめるパシュトゥーン人という民族がある。
そこに生まれたからには従わなければならない掟があって”聖域の提供”
「敵から追われている者を、自らの命を懸けて助けよ」というものがある。
これはキノコ派だから。タケノコ派だから……という宗派によって従わなければならない掟。というわけではなく、「血筋」によってという部分で対応される。
……と断定できるわけではなく、謂わば哲学的なものだろうか。
日本人だと「まわりが従っているなら同じように従おう」という考え方に近いのだろうか?
ここの解釈が調べれば調べるほど難しい。
そもそも、イスラム教というのは哲学要素が多くて、そこが様々な解釈によって宗派が分断されてしまっているようにも感じるし、民族の掟がそこに関係するのかというのも理解できていない。
そもそも、日本人だと「宗派」「民族」などに疎いので感覚がまだ理解できない
掟というものを極限まで砕くとするなら「信号が赤なら止まる」みたいなものだろう。
兎にも角にも、この「敵から追われている者を、自らの命を懸けて助けよ」という掟によって、
本作では、仲間がやられて、自身もぼろぼろになったシールズの一人が、パシュトゥン人の親子に助けられたということだ。
何が言いたいのかというと
宗教、民族、言語、肌の色、性別、年齢、目の色、身長と体重、身体的特徴……
様々な要素で人間という生き物が分別されている。
言語の違いがあるだけでも、理解をしようとせず差別につながる。
互いの言語が一緒で理解できるのにも関わらず、肌の色だけで区別してレッテルを貼り付ける。
にもかかわらず、
”聖域の提供”という”掟”。
そんな曖昧な存在によって、
その分別=差別が溶けて、
弱者を自分の命を犠牲にして助けるという貴重な行動ができる。
信じられないことだ。
個人にフォーカスして理解しようとすれば
関わらないという判断は対象を大きくせずに出来るはずなのに、どうしてそれが出来ないのだろうか?
人間は愚かだ。